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以前山と渓谷社の「美景」に掲載した原稿です。 私の好きな風景です。 川端康成さんが歩いた道を辿っていた。伊豆湯ヶ島から下田までの、所謂下田街道である。平成8年(1996)の初冬であった。 ハイビジョンがまだ実験放送の時代で、重い撮影機材を積み込んだ専用車での移動ロケであった。私は構成作家兼ディレクターの立場であった。その撮影を薦めてくれたのはテレビ朝日の稲冨一興さん(ハイビジョン担当部長)だった。当時の私はハイビジョンの広い画角と高精細な画質の鮮やかで迫力のある世界にのめり込んでいた。 ロケ地に伊豆を選んだのは、私が高校生だった頃、川端康成さんが長期逗留した湯ヶ島温泉に旅行したことがあり、その山底に沈んだような温泉町の長閑な風景が気に入っていたこともあった。私は川端さんの大のファンで、川端さんの小説『伊豆の踊子』の世界をハイビジョンで記録したいと思った。その舞台となった湯ヶ島から下田までを俳優の石濱朗に訪ねて貰うことにした。 撮影は川端さんの長期滞在した旅館「湯本館」から始めた。川端さんが4年半の歳月をかけて『伊豆の踊子』を書き上げた部屋は当時のまま残されていた。川端さんが天城湯ヶ島を訪れたのは、大阪から上京し、一高に入学した翌年(大正7年)の伊豆ひとり旅であった。その途次で旅芸人の一行と出会い、道連れになった。その時の体験が小説『伊豆の踊子』に結実したのである。 「湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下して一心に見ていた。」(『伊豆の踊子』より) その梯子段のあるところが帳場で、壁には美空ひばり主演の映画「伊豆の踊子」のロケ写真が飾られていた。その写真を石浜朗さんが懐かしげに眺めていた。石濱さんは「伊豆の踊子」で学生役を演じていた。(1954年・松竹・野村芳太郎監督・美空ひばり、石濱朗主演・白黒映画) 因みに映画「伊豆の踊子」は、田中絹代・大日向傳、美空ひばり・石濱朗、鰐淵晴子・津川雅彦、高橋秀樹・吉永小百合、黒沢年男・内藤洋子、山口百恵・三浦友和が演じている。学生役と踊子役はスターの勲章のようなものであった。 川端さんは昭和の初めまでの約10年、しばしば湯ヶ島にやってきては長逗留した。川 端さんの回想によれば、尾崎士郎、宇野千代、広津和郎、萩原朔太郎さんなどが川端さんに誘われてやって来て、湯ヶ島は一時文士村のようだったと言う。その中に梶井基次郎さんがいた。結核の症状がかなり進んでいた梶井さんは転地療養で湯ヶ島にやってきたが、旅館で長逗留を断られ、「湯本館」に逗留していた川端さんを頼り、近くの「湯川屋」を紹介して貰った。川端さんは、まだ無名の文学青年だった初対面の梶井さんを快く迎え、以後、校正の手伝いをさせ、川端さんと親しい作家たちに引き合わせた。三方を天城連山に囲まれ、清流・狩野川が貫く湯ヶ島には、そうした作家たちと散策を楽しみ、文学を論じ合った風景が時代の風化を免れたように残っていた。 名爆・浄蓮の瀧の撮影を終えて、いよいよ天城越えである。 「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密 林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」(『伊豆の踊子』) その杉林の間を学生服姿の石濱さんに歩いて貰った。下田街道は、三島から下田までおよそ68キロメートル(17里14町21歩)で、韮山、大仁、湯ヶ島、そして天城峠を越えて箕作、下田へと続いている。この街道は、幕末にはアメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリスや囚人となった吉田松陰らが通った道である。 天城峠は湯ヶ島と河津の境にある峠で、標高820メートル、狩野川と河津川の分水嶺となっている。険しい道である。小説にもある通り、つづら折りの道を登っていく。雨風の強い日は麓の方から雨足が凄まじい勢いで追いかけてくるのだろうか。その雰囲気をハイビジョンのカメラに収めた。 小説に登場する天城峠は、明治38年に開削された「旧天城峠」で、江戸時代の峠ではない。昭和45年に新々道が完成して役割を終えている。 峠を登りきったところに映画にも出てくるトンネルがある。その入り口の茶店で旅芸人の一行が私(主人公)を待っていた。暗いトンネルの中を一高生の主人公が歩いていくシーンを石濱さんに再現して貰った。真っ暗な画面に前方の出口がぽっかり口を開け、「時折冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた・・・・」その明かりの中を石濱さんの後ろ姿がシルエットになって遠ざかり、幻想的な場面になった。川端さんにとってトンネルは現実から非現実の世界へ場面を転換させる装置であったのかも知れない。2歳で父、3歳で母、7歳で祖母、10歳で姉、16歳で祖父と死別した川端さんはトンネルの先に救いを求めたのかも知れない。川端康成さんは、こうした場面が好きなようで、特に、小説『雪国』の書き出しは鮮やかである。 天城峠を越え、ワサビ田を下っていくとその先に湯ヶ野温泉がある。湯ヶ野温泉には私(主人公)が泊まった宿(「福田家」)が河津川の対岸に今もあり、「向かいの共同風呂に入っていた踊子が裸のまま立ち上り、こちらに手を振るのを見てその無邪気な子供らしさに思わず頬笑んだ」とある。石濱さんはロビーに飾られたロケ写真を眺めながら感慨に耽っていた。 「誘ってくれてありがとう。学生服は恥ずかしかったけどね。」 還暦を過ぎたばかりの石濱さんは若きスターであった頃を思い出したのか、ポツリと言った。 翌日、石濱さんとは河津で別れた。北に向かえば熱海、南に向かえば下田である。 私たちロケ隊は旅の締めくくりに西伊豆松崎を目指した。太平洋に沈む夕陽をハイビジョンカメラで撮影したいと思っていた。 「山ねむる山のふもとに海眠る愁しき春の国を旅行く」 明治の歌人・若山牧水は松崎岩地海岸でこう詠んだ。西伊豆の南海岸は山が大き太平洋に迫り出し、海岸線に沿って僅かな窪地に集落が点在するところであった。昔は道路もなくそれぞれの集落が孤立していた。その中で松崎は下田街道・箕作から分岐した横断路で結ばれ、那賀川に沿った扇状地で、比較的古くから開けてきた歴史があり、牧水が詠ったように山も海も眠った、穏やかな漁師町であった。町に入って目を見張るのは明治の商家中瀬邸、伊豆文邸など海鼠壁の民家や土蔵が散在していることで、特に白壁が夕陽に染まる光景は旅人の疲れを癒してくれる。“めじ”と呼ばれる継ぎ目に漆喰を蒲鉾型に盛り上げて塗った海鼠壁は明治時代から昭和初期にかけて盛んに作られ、防火、保温、防湿の役目を果たしてきた。今に残る国指定重要文化財・「岩科小学校」は明治13年、岩科村大工棟梁高木久五郎・菊池丑太郎によって設計施工され、左官技術の粋を結集させた海鼠壁とバルコニーのある洋風デザインが見事に調和した建物であった。松崎村民が総建築費の約四割を寄附金で集め完成させたと言い、村民の教育振興熱が高かった証のような建物でもある。近代伊豆のあけぼのを象徴する「岩科小学校」の扁額は、時の太政大臣・三条実美の書である。 「岩科小学校」の二階客室の欄間に、一羽一羽形の違った千羽鶴が描かれていた。日本画を思わせるその欄間の千羽鶴は、左官の名工・入江長八が鏝(こて)で描いたもので、壁から鶴が抜け出してくるような、漆喰技法と彩色技法を巧みに組み合わせた鏝絵の傑作である。ハイビジョンカメラは、その立体感を見事に捉えた。 入江長八は文化12年(1815)伊豆国松崎で生まれ、12歳で左官の棟梁関仁助に弟子入り。19歳で江戸に出て絵の修行をし、川越で谷文晃の高弟喜多武清に狩野派の絵を学んだと言う。明治の彫刻界の巨匠高村光雲は「前後に比類のない名人」と長八の漆喰鏝絵を讃えている。入江長八の代表作品は「長八美術館」に60点が展示されていた。「富士の図」、春暁の図」、「ホーロクの静御前」(写真)など、鏝で描いたとは思えない立体感と奥行きを備えた傑作であった。この白亜の「長八美術館」のあらゆる場所には全国から集まった優秀な左官技術者の芸が鏤められていた。 因みにこの「長八美術館」は建築家石山修武さんの設計で、建築界の芥川賞と言われる「吉田五十八賞」を受賞している。 松崎には維新の風を血と肉にした開明的な気風がある。群馬県富岡に次ぐ製紙工場の設立、北海道帯広開拓、自費を投じた学舎の創立など、進取の気性に溢れている。幕末の下田に押し寄せたペルー来航の嵐は、山を越え伊豆西海岸に達し、眠った村を揺さぶった。 町の空気はそんな気風をそこかしこに漂わせているように思えた。 二月の初旬、東伊豆では河津の桜が早い春を告げる頃、西伊豆ではその春を追いかけるように那賀川沿道の花畑にアフリカキンセンカ、るりからくさ、姫金魚草、ひなげしなど6種類の花々が咲き競い、4月に入ると、那賀川沿いの堤におよそ一二〇〇本のソメイヨシノが本格的な春の装いを始める。やがて、釣り人たちが鮎釣りや磯釣りを楽しむ季節となり、大海原から北に目を移すと遙か先に秀麗な富士山が霞を透かして浮かんだように見える。この長閑な温もりとひとときの安らぎが旅する人の心を落ち着かせるのか。 TBSのテレビドラマ「世界の中心で愛をさけぶ」はこの松崎をメインロケ地として収録された。 私たちは雲見の海岸で太平洋に落ちていく絶品の夕陽をハイビジョンカメラに収めた。そして、疲れ切った身体を宿の湯舟に沈めた。 |
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